『十全』の由来 | について | ||
【故 西田尚紀先生執筆 十全医学会雑誌103巻4号・十全同窓会会報より】 |
十全という語句は・・・ | ||
中国の周代(BC 1000年の頃)の官制を記した周礼(しゅらい)の中に出ている。 ・・・・医師は医療の政令を司る。そして毒薬を集めて医療に供する。 凡そ我国の病人や傷を受けた者が治療を求める時,それぞれの医者に分けて治療を受けさせる。 一年の終わりに年間の医療実態を調べその上で医者の俸録を判定する。 この場合十のケースのすべてを癒す(十全)のを「上」とする。 一割の失敗は十全に次ぐものと見なす。同じく二割,三割と次々にその失敗の度合いを見る。そして四割失敗したとすればこれを「下」とする。 |
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この四割を「下」とする説明を鄭氏註によれば「五ハ則チ半ナリ,或ハ治セザルモ癒ユルナリ」とある。 つまり五割治しても元々自然治癒が五割あるから五割は俸禄外だというわけである。 |
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文章を始めの「毒薬を集める」という語句は鄭氏註によれば「(毒薬とは)薬の辛苦ナルモノ,常に多毒,孟子(BC372-BC289 戦国時代の思想家)曰ク,薬ニシテ瞑眩セズンバ厥(そ)ノ疾,廖(い)ユルコトナシ」と,つまり薬を飲んで頭がクラクラッとしない様なものならその効力は無いものだと孟先生は言っている。 | ||
以上に述べた周礼の時代から更に2000年程経た宋の時代に程明(1032-85),程以川(1033-1107)の兄弟学者があり,この中で上述の「十全」を敷衍(ふえん)して次の如く記述されている。 「周官(周礼と同義)に医は十全をもって上と為す,と,(然し)十人皆癒ゆるを上と為すには非ず。若し十人不幸にして皆死病なれば奈何(いかん)せん。但し,治癒可能と不可能なる者を知り十人に対する処置が皆当を得ておればこれを上とする」と。 |
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治癒可能と不可能を良く見分けることは現在学問の驚異的進歩によって数多くの病について克服されたと言って良いが身辺には尚沢山の病が解決されないまま取り残されている。 それらの実態を知りこれを克服する様に更に勉学することは昔も今も変りはない。 医の「十全」が学術誌上に少しの光も失わないのはこの理由である。 |
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